『東北の生命力』 津波と里海の人々
瀬戸山玄/著 岩波書店 2013.3
東北沿岸の水に関わる暮らしと自然を20年近く追い続けてきた著者が、農業・漁業・ものづくりなどを多様に結ぶ、東北の地場が東日本大震災以前から持ち続けてきた力をみつめ直し、再生に挑む人々を描く。
Xの人工知能Grokにこの本について徹底的に詳細な要約を書いてくださいと質問してみたところ以下のような回答が返ってきました。
『東北の生命力――津波と里海の人々』(瀬戸山玄/著、岩波新書、2013年3月刊)は、東日本大震災で壊滅した三陸海岸の漁村を2011年4月から丸2年間にわたり歩き続け、津波で全てを失った漁師たちが「それでも海に戻る」と決めた理由を徹底的に掘り下げた、極めて重厚なフィールドワークの記録です。著者の瀬戸山玄(せとやま・げん)は、京都大学で海洋生態学を専攻した若手研究者(当時30歳前後)。震災直後から個人的に三陸に通い、岩手・宮城の約30の漁港・漁村に延べ200日以上泊まり込み、100人を超える漁師・漁協関係者・家族に聞き取りを行いました。学者としての冷静な観察眼と、若さゆえの泥臭いまでの現地密着が融合した、類を見ない「復興民俗学」とも呼べる一冊です。本の構成と核心第1章 壊滅した里海
むしろ『逃げられない』という、ほとんど呪いに近い宿命と執着だった。
でも、その執着こそが、1000年以上にわたり三陸の漁村を存続させてきた生命力の正体なのだ。」衝撃的だった記述(一部)
その力は希望でも絶望でもなく、ただ「ここにいるしかない」という、圧倒的な現実でした。今読んでも色褪せない、三陸の漁師たちが持つ「生命力」の決定的な証言です。
- 三陸海岸は世界有数の漁場であり、同時に「津波の常襲地帯」
- 明治三陸津波(1896年)、昭和三陸津波(1933年)、チリ地震津波(1960年)と、生き残った世代は必ず「先祖の津波」の記憶を持っていた
- しかし高度経済成長以降、防潮堤・養殖施設・港湾整備が進み、「もう津波は大丈夫」という過信が広がっていた
- 宮古市・重茂(おもえ)漁港:標高40mの防潮堤を越える津波(日本最高記録)
- 大槌町・吉里吉里:集落全滅、漁師の約3割が死亡・行方不明
- 気仙沼・大谷海岸:養殖施設が完全に消滅
- 女川町:港の水深が一時30m→5mに浅くなるほど瓦礫が堆積
- 石巻・雄勝町:人口約4,200人→死者行方不明約500人(12%)
- 「海がなければ生きていけない」
三陸の漁師にとって海は職業ではなく「生き方」そのものだった。山に仕事はない。津波で家も船も失っても、海だけは残った。 - 「先祖がここで生きてきた」
「先祖が津波を乗り越えてここに住み続けた。だから自分も逃げられない」という言葉が何度も出てくる。土地への執着というより、血の宿命に近い。 - 「漁師であることがアイデンティティ」
70歳を超えるベテラン漁師が「海に出られなくなったら、ただのジジイだ」と語る。死ぬよりつらいのは「漁師をやめること」だった。 - 「子どもたちに残せるものが海しかない」
後継者不足で苦しんでいた漁村にとって、津波は逆に「若い人が戻るきっかけ」になった例も多数。
- 国・県が推し進める「巨大防潮堤計画」への激しい反発
→ 10m以上の防潮堤は漁業に悪影響(海が見えなくなる、魚が寄らなくなる) - 漁港の復旧が異常に遅い現実(2013年時点で本格稼働は1割程度)
- 養殖業の完全復活が絶望的だった地域(ホタテ・牡蠣・銀鮭など)
- 若い漁師が「もう海はやめる」と陸に上がるケースと、「親父の船を継ぐ」と戻るケースが同時に起きていた
- 釜石・両石:漁師たちが自分たちで瓦礫を撤去し、半年で漁港を復旧
- 大槌・吉里吉里:若手漁師が「津波で一度リセットされた。だから新しい漁業をやろう」と挑戦
- 南三陸・戸倉:女性たちが「海藻を植える」活動を再開し、漁場再生の第一歩に
- 気仙沼:全国から来たボランティアと漁師が一緒に「ホヤ」の種苗を植え付ける
むしろ『逃げられない』という、ほとんど呪いに近い宿命と執着だった。
でも、その執着こそが、1000年以上にわたり三陸の漁村を存続させてきた生命力の正体なのだ。」衝撃的だった記述(一部)
- ある漁師が津波で流された息子の遺体を自分で海から引き上げ、「これで一緒に漁に出られる」と棺に入れた。
- 80歳の老漁師が「防潮堤なんか作るな。海が見えなくなったら漁師は死ぬ」と役所に怒鳴り込んだ。
- 津波で妻と娘を失った40代漁師が「海を恨んだことは一度もない。海は悪くない」と語った。
その力は希望でも絶望でもなく、ただ「ここにいるしかない」という、圧倒的な現実でした。今読んでも色褪せない、三陸の漁師たちが持つ「生命力」の決定的な証言です。
東北の生命力 [ 瀬戸山玄 ] |