『いまこそ私は原発に反対します。』
日本ペンクラブ/編 平凡社 2012.03
言葉は原発の壁を超えることができるのか? 浅田次郎、あさのあつこ、玄侑宗久、竹下景子、俵万智、萩尾望都らが、フクシマの衝撃を小説、詩、エッセイ、評論で表現する。
西木正明 (いまこそ私は原発に反対します より)
先日、早稲田大学学探検部7期OBで早稲田大学探検部の先生(早稲田大学探検部第3代OB会会長)とも思われる西木正明さんが寄稿されている本を読みました。書名は、「今こそ私は原発に反対します」です。文京区立図書館で借りて読みました。
西木正明さんは2023年12月5日午後9時46分に、敗血症性ショックで神奈川県川崎市内の病院で逝去されました。83歳でした。
心よりご冥福をお祈りいたします。
僕は早稲田大学探検部の大先輩だった、西木正明さんのご遺志は受け継いでいく所存です。
2023年12月10日に僕のメールアドレスに届いた早稲田大学探検部OB会からのメールには以下のような記述がありました。
6期西木正明さんが12月5日、逝去されました。
以下、ネットニュースの内容を添付します。
「凍(しば)れる瞳」「端島(はしま)の女」で第99回(
作家の西木正明(にしき・まさあき、本名鈴木正昭=すずき・
敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。83歳。
自宅は非公表。葬儀は近親者のみで行う。喪主は長男鈴木絢(
2024年12月9日に早稲田大学探検部OB会より送られてきたメールは以下のようなものでした。
7期OBで2023年12月に亡くなられた西木正明さん(本名: 鈴木正昭)の追悼展が
秋田県角舘の新潮社記念文学館で開催されています。 来年3月19日まで開催されていますので、
秋田方面に行かれる方は立ち寄ってみてはいかがでしょう。
詳しくは添付のチラシをご参照ください。
また、添付の写真は、 たまたま立ち寄られた18期の林治彦さんが撮影されたものです。
添付されていたファイルはものは以下のようなファイルでした。
探検部OB会連絡幹事 鈴木(26期)
僕が西木正明さんの書かれた文章を読むことになったのは、早稲田大学探検部33期で同期だった中谷敏夫が、飲み会の席で、僕に
「西木正明」と言っていたので、西木正明さんの書かれた文章を読むことになりました。
中谷敏夫は、新宿の東京医大病院に入院されました。僕同期の森山憲一、桜井誠人と一緒にお見舞いに行きました。
新宿区の東京医大病院にお見舞いに行ったあとに、森山憲一、桜井誠人、上原和明の3人で新宿のインド料理屋で食事をしました。
桜井誠人のTwitter(現X)はこちら→Sakurai Masato@CherrySakurai
新宿のインド料理屋で食事をしたあとに、僕が桜井誠人に「ビッグイシューの挑戦」という本を手渡されたことを書いているブログはこちら
「ビッグイシューの挑戦」という本について書いているものはこちら
もう一つの要因は、僕らの上の代の早稲田大学探検部OBとの飲み会の席で、早稲田大学探検部29期OBの竹村拡が、
「西木正明」「船戸与一」と言っていたことも大きな要因です。
などなどの声が聞こえています。
僕が僕に「西木正明、船戸与一」と言っていた早稲田大学探検部29期OBになる竹村拡の書いたコラムを読んでの感想を書いているブログはこちら
竹村拡の幻聴として長い間聞こえている幻聴は、
「上原のアナル掘れ」
「最後はラーメン屋だ」
(竹村さんと早稲田大学探検部で同期生だった亡くなった早稲田大学探検部29期の幹事長を務められていた故佐藤英一さんが、僕がインドブラマプトラ川川下り報告書に書いた「ブラマの水の味」を読んで、部室にいらして、「探検部にはメシアが必要だ」と仰った際に、僕が、「飯屋だかラーメン屋だか知りませんが・・・」と言い返してしまった時のことを竹村さんは覚えていて、最後はラーメン屋だと言っているのだと思います。)
という意味不明の愚かな幻聴が聞こえています。
竹村拡のXはこちら→@htake55
竹村拡を教唆の罪(刑法61条)で訴えようかと思っています。
ちなみにこの竹村拡とは昔、会った際に、
「蟻の門渡り」(会陰乃ち陰部と肛門の間を云ふ。)とか言っていた人間です。
早稲田大学探検部29期OBの竹村拡を男性に対する性暴力被害で訴えようかと思っています。
「今こそ私は原発に反対します」という本は
僕は、この本の中に、西木正明さんの著作があったので、興味津々に読んでみました。
西木正明さんと言えば、早稲田大学探検部出身の『凍(しば)れる瞳』『端島(はしま)の女』で直木賞を受賞した作家の方です。
早稲田大学探検部の先生とも思われる方です。
2010年2月22日に早稲田大学探検部OB会から届いたメールに添付されていた早稲田大学探検部13期OBだった故惠谷治さんの書かれた「早稲田大学探検部創設経緯」によると、西木正明さんは早稲田大学探検部OB会第3代会長を務められていたようです。
早稲田大学探検部OB会から届いた早大探検部活動記録はこちら
早稲田大学探検部13期OBだった、2018年5月20日に膵癌で69歳で亡くなった故惠谷治さんの書かれた「早稲田大学探検部創設経緯」はこちら
故惠谷治さんからメールが来た際に早稲田大学探検部チベット隊隊員に送ったメールとその返事は以下です。
惠谷治さんが亡くなった際に早稲田大学探検部関係者で行ったメールのやり取りは以下です。
僕が亡くなった早稲田大学探検部13期OBだった故恵谷治さんの声として聞こえている声は、
「上原が、『ブラマの水の味』書いた時点で、上原の勝ちだ」
という声が聞こえています。
2015年4月23日に早稲田大学探検部OB会より僕のメールアドレスに届いたメールに添付されていた2015年4月22日に胸腺がんで71歳で亡くなった早稲田大学探検部8期OBだった、故船戸与一さんを悼む西木正明さんの書かれた、読売新聞4月23日朝刊の記事はこちら
2015年4月26日に、早稲田大学探検部OB会より僕のメールアドレスに届いたメールに添付されていた2015年4月22日に71歳で胸腺がんで亡くなった早稲田大学探検部8期OBだった、故船戸与一さんを悼む西木正明さんの書かれた、東京新聞2015年4月24日夕刊の記事はこちら
僕が亡くなった早稲田大学探検部8期OBだった故船戸与一さんの声として聞こえている声は、
「早稲田大学探検部のことは上原に任せておけばいいんだ」
という声が聞こえています。
2020年6月4日に早稲田大学探検部OB会より届いた僕のメールアドレスに届いたメールに添付されていた早稲田大学探検部7期OBで元鎌倉市長だった故竹内謙さん(2014年4月2日73歳で逝去)のことも書かれている、西木正明さんの書いた記事はこちら
図書館で偶然借りた本「くつろぎの時間 喫煙室 第21集」という本に載っていた西木正明さんの書かれた「帰らざる河」というエッセイについて書いているブログはこちら
西木正明さんのウィキペディアはこちら⇒西木正明
僕が西木正明さんについて書いているブログはこちら
本書に寄稿されている西木正明さんの文章は以下のようなものです。
「会わずに別れた息子への手紙」
西木正明 (いまこそ私は原発に反対します より)
手紙ありがと。よくオラの居場所がわかったな。と言っても、オラが死んじまった今は居場所もなにもあったもんじゃないがね。
それにしても、オラはまだ死んで間もないので、よもや会ったことのない息子から、手紙をもらうなどとは思ってもいなかった。だから、とてもうれしいよ。
仏壇に置かれた手紙を見ると、君はもう30歳を超えたんだって? いや、月日のたつのはまったく速いもんだね。
だったら、もうすべて承知の上で、オラに手紙をよこしたんだろうから、敢えて教えて当時のことをそのまま言うよ。
君はオラをダディと呼んでくれているが、オラは残念ながら、君の父親ではない。
なに、それも知ってるって?
ああ、そうかい。ならばいっそう、話しやすい。君の母親と別れたのは、まったくもってオラが悪い。当時雑誌の編集者などやっていてな。忙しさを理由に毎晩酒を飲んで、朝帰りも珍しいことではなかった。
外国で生まれ育ち、しかも敬虔なクリスチャンだった君の母親には、とても耐えられない生活だったんだな。だから、いっしょになって一年半余りで別れ、君の母は自分の国に帰ったんだ。
その後しばらく連絡がなかったが、まあ、当然だね。オラに愛想つかして帰ったんだから、なのに別れてから約二年後、君の母親から手紙がきたんで驚いたよ。
《元気ですか。わたしは元気ですから安心してください。実は、ひとつお知らせがあって手紙を書きました。この度、男の赤ちゃんが無事生まれて、母子ともに健康です。もちろんあなたの子です。名前はわたしの現在の夫につけて貰いました。ダレルといいます。もうわだかまりもないので、会いたければ会わせてあげます。取り急ぎ連絡まで。》
だいたい、こんな内容だったな。で、このこと自体は、君がこの世に生まれてきただからまことにけっこうなことだけど、少しばかり困ったのは、オラと君のお母さんと別れてから、二年後に君が生まれたというあたりだったね。
とりたててどうこう言うほどの問題でもないけれど、人間は孕み期間が二年近いゾウと違って、いわゆる十月十日だろ。
しかし、人間、折々の時に折々の都合があるからな。今もそうだけど、当時はもっとロクデナシで大酒飲みだったオラが、君の母親にしてやれることは、それぐらいだと思ったから、それでいいということにしたんだ。
え?ありがと、だって。いや、そんなこと言われる筋合いはないから、いいよ。
さっきも言ったように、オラは酒の飲み過ぎで死んじまったから、今は天国にいる。だから、今この瞬間も、君の顔を見ることが出来る。いい顔してるじゃん。君の母さんに種蒔いた人は、きっと男前だったんだな。
なんだと、今君の母親は、その人といっしょに生活してるって?いや、すまん。よけいなこと言っちまった。今オラが言ったことは、母さんには言わないでくれ。
なに、さっきからなぜ自分のことを、オラというかって?
理由はふたつ。東北の山奥の出身で、子供の頃から、自分をそう言っていった。もう一つ理由は、オラがかつて雑誌の編集者をしていた頃からの友人が、作詞した歌が大好きでね。
『帰ってきたヨッパライ』っていうタイトルで、作詞はオラの旧友の松山猛で、作曲はたしか加藤和彦だったな。
オラは死んじまっただ、というのが冒頭の歌詞で、それがなんとも言えないほど滑稽で物悲しく、しかもどこか甘い響きのある歌でね、酔っ払って歌っているうちに、言葉が子供時代に戻っちまって、自分のことをオラというようになっちまった。
で、だ。
君から手紙をもらってうれしさの余り、よけいなことを書いたけど、今日はひとつ、聞いてもらいことがある。
もう知っていると思うけど、昨年日本は大変だったんだ。そうそう、大地震と大津波が来てな。
地震そのものの被害より、津波の被害のほうが何百倍も大きかった。そうなった原因のひとつが、原子力発電所だ。
電力会社や政府の人が言っていたよ。ソウテイガイのことが起きたって。
ソウテイガイって、想像もつかないことだろう。でも、オラのような市井の片隅、なんちゃって、かっこつけて言ったけど、要するに普通の生活をしているオラのような人間は、オカミや専門家はすべて想定内で物事を推し進めてきたと思ってたんで、ああ言われて驚いたね。
地震そのものは自然現象なんで、いわば神さまか仏さまに聞かなきゃ、どのくらいのものが来るのかわからないかも知れない。オラだってそれくらいのことは理解する。
でもな、だったらそんなに危ないものに手を出しちゃいけないって、オラなんか思っちまうだな。
実のところオラは、若い頃からロクでもない生き方をしてきたんで、ある時から少しばかり心を入れ換えた。ある時というのは何時だって?そうだなあ、あれは今からかれこれ三〇年ばかり前からかな。
それまでは、原発にも原爆にも、とんと興味がなかった。それが急に気になりはじめたのは、仕事と道楽を兼ねて南太平洋の島々を徘徊するようになってからだ。
もともと釣りが好きなので、日本の渓流や川、海はもちろん、海外まで足を延ばして釣り歩いていた。
その中に、一九五〇年代後半から六〇年代はじめ、こういう言い方はしたくないけど、君の母ちゃんの母国アメリカやイギリスが、水爆実験を繰り返した南洋のクリスマス島なども入っていた。実験直前から太古の昔からそこで暮らしていた住民を他の島に移住させ、島を取り囲んでいる珊瑚礁の高空で、核実験を行なったんだ。
現在その周辺が、ボーンフィッシュなど、回遊魚の好釣り場になっているんだ。
オラは当初、なにも考えずに、そんなところで竿を振り回していた。それが突然、気になりはじめたのは、およそ二五年前、例のチェルノブイリ原発事故の映像を、テレビで見てからだ。
あの凄惨な映像と、自分が能天気に釣竿を振り回していた南太平洋の真っ青な海とがオーバーラップしてね。いやあ、まいったという気分になったね。
その後は、陽光がきらめく南の海にある核実験の現場跡で、無邪気に釣りに興じていた自分のバカさかげんが恥ずかしくなってなってな。
なにかオラみたいな者でも、出来ることはないかと思っていたら、たまたま『日本ベラルーシ友好協会』っている団体が、オラの郷里秋田にあってな。秋田大学医学部の協力を得て、チェルノブイリの被害がもっとも深刻だったベラルーシから、毎年何人かの若い医者や研究者を呼んで、日本に半年から一年ぐらい住んでもらって、被曝した人たちに対する治療の仕方を勉強してもらったんだ。
これまでなにもしてしなかったという罪滅ぼしの気もあって、オラもこの会に入れてもらって、細々ながら手伝ってきた。もう二〇年以上続けているんで、これまでに約七〇人もの若い医者たちに研修を受けてもらったよ。
だから、今回の大震災の後、そうして縁の出来たベラルーシから、チェルノブイリの事故の被爆者を治療した経験や、治療のデータを提供したい、と言ってきた時はうれしかったね。
さらに何人かは、日本の被災地に入って、足りないと聞いている医師たちといっしょに活動したいと言われた時は、思わず目から汗と鼻水が出たよ。その時はまだ日本の現場が混乱していて、受け入れてもらえなかったのは残念だったけど。
それにつけても、と、その時思ったんだ。原子力なんちゅうものは、神さまの領域のもんだ、と。でなけれゃ、科学技術が世界の最先端を行くこの日本が対応出来ないような、ソウテイガイのことなんて起こるわけがないって。
言ってみれば原子炉なんちゅうものは太陽の化身である天照大御神を閉じ込めた、天の岩戸みたいなものだ。どうにか封印出来ている間はいいが、神の思し召しかなにかで、巨大な自然現象が引き金になって亀裂が出来たら最後、人間の手には負えなくなるんだ。
オラは神についても仏についてもまるで無知だが、なにか絶対的なものの存在は信じることにしている。太陽、つまり核融合を繰り返す巨大な原子炉のようなものを崇拝し、朝焼けの海や山の頂上でご来光に手を合わせるのは、そのためだ。
はじめて連絡をくれた君に、こんなことを言って悪かったような気もするが、たまたま君も、ソウテイガイのこととはいえ、オラが親父だと思っていた時期もあるんだ。その縁に免じて、許してくれ。日本では今、絆という言葉が大流行りしているからな。
さあて、そろそろ一杯やるか。あれ?誰もいないぞ。あ、もしかしてここは、天国じゃないのか。
ありゃ、まわりは犬や猫、ウサギなど、ペットみたいない動物ばかりだ。オラはろくでなしで、人間のオナゴには好かれないけど、なぜか野良犬や野良猫とは仲良くなれた。
子供の頃から、よく野良公の犬や猫を拾ってきて、いっしょに生活したっけ。死んじまう少し前までも、何匹かの野良公といっしょだった。
そうか、わかったぞ。オラみたいな者が、人間さまが天国に来ることを、神さまや仏さまが許して下さるはずがない。
しかし根が小心者なので、地獄に落とされるほどの悪さもしなかった。だからきっと、神さまか仏さまが哀れに思われて、動物たちの天国に回してくれんたんだ。
しょうがない。被災地で親を失ってここにきた犬や猫と、仲良くやるか。ああ、それにしても、一杯やりたいないなあ。
(にしき まさあき・作家)
以上が、早稲田大学探検部の先生とも思われる西木正明さんの「今こそ私は原発に反対します」への寄稿、「会わずに別れた息子への手紙」という文章です。
テレビ、新聞などのマスコミを始め、出版業界、ネット空間でも盛んに使われている言葉、
「ソウテイガイ」「絆」
という言葉に対して、西木正明さんの、権力に対しての反骨精神を感じさせる、文章です。
「ソウテイガイ」に関しては、
西木正明さんは、
「要するに普通の生活をしているオラのような人間は、オカミや専門家はすべて想定内で物事を推し進めてきたと思ってたんで」
と、述べて、普通の市井の人々から見て、オカミ(政府や官庁)や専門家(原子力発電産業に携われる専門家のことだと思います)の「ソウテイガイ(想定外)」という言葉は、予想外の言葉だったと述べています。
「絆」に関しては、
西木正明さんは、
「日本では今、絆という言葉が大流行りしているからな。」
と述べて、「絆」という言葉に対して、皮肉という感じで文章を書いています。
西木さんの普通の市井の人間としての、反骨精神を感じさせる文章だと思いました。
早稲田大学探検部関係者の方々には是非、ご一読していただきたい本です。
福島原発事故に関しては、
「もう知っていると思うけど、昨年日本は大変だったんだ。そうそう、大地震と大津波が来てな。
地震そのものの被害より、津波の被害のほうが何百倍も大きかった。そうなった原因のひとつが、原子力発電所だ。」
と、津波による、福島原発事故が、東日本大震災による被害を何百倍にも大きくしてまったと述べています。
原子力発電そのものに関しては、
「言ってみれば原子炉なんちゅうものは太陽の化身である天照大御神を閉じ込めた、天の岩戸みたいなものだ。」
と述べて、原子力発電が神の領域のものだとも述べています。
僕がこの文章を読んでいてすごいなと思った部分は、
「なにかオラみたいな者でも、出来ることはないかと思っていたら、たまたま『日本ベラルーシ友好協会』っていう団体が、オラの郷里秋田にあってな。秋田大学医学部の協力を得て、チェルノブイリの被害がもっとも深刻だったベラルーシから、毎年何人かの若い医者や研究者を呼んで、日本に半年から一年ぐらい住んでもらって、被曝した人たちに対する治療の仕方を勉強してもらったんだ。」
という部分です。
「チェルノブイリ原発事故の被害を被ったベラルーシから毎年何人かの若い医者や研究者を呼んで、日本に半年から一年ぐらい住んでもらって、被曝した人たちに対する治療の仕方を勉強してもらったんだ。」
という部分は、著者が、福島原発事故以前から、チェルノブイリ原発事故の被害を被っているベラルーシから若い医師や研究者を呼んで、治療の仕方を勉強してもらったという部分がすごいなと思いました。
きちんと、現実を見てから(知ってから)、ご自分の出来ることをしていたことがすごいと思いました。
早稲田大学探検部関係者の方々には是非、ご一読していただきたい本です。