2014年7月22日火曜日

『文学者の「核・フクシマ論」』 吉本隆明・大江健三郎・村上春樹

『文学者の「核・フクシマ論」』  吉本隆明・大江健三郎・村上春樹   

黒古一夫/著   彩流社 2013.03


著名な3人の文学者は、フクシマに対し、どのように発言し行動したのか? 吉本隆明の原発容認論、大江健三郎の「反核」論、村上春樹の「反核スピーチ」を俎上に、文学者の「核・フクシマ」論を問う。

Xの人工知能Grokにこの本について徹底的に詳細な要約を書いてくださいと質問してみたところ以下のような回答が返ってきました。

『文学者の「核・フクシマ論」―吉本隆明・大江健三郎・村上春樹』(黒古一夫著、彩流社、2013年)は、福島第一原発事故(2011年3月11日)を背景に、日本の著名な文学者である吉本隆明、大江健三郎、村上春樹が核問題(原爆・原発)と福島事故についてどのように発言し、行動したかを詳細に分析した文芸評論です。著者の黒古一夫は、ヒロシマ・ナガサキ以来の日本の反核運動や原爆文学の歴史を踏まえ、3人の文学者の「核・フクシマ」に対する姿勢を批判的に検証し、文学者の社会的責任と倫理を問い直します。本書は、福島事故後の「風化」や原発再稼働の動きに対する危機感から、文学者がどのように核問題にコミットしたかを浮き彫りにすることを目的としています。以下、構成に沿って詳細な要約を章ごとにまとめます。[](https://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1872-2.html) --- ### **序にかえて――今、なぜ文学者の「核・フクシマ」論を問うのか** 黒古一夫は、福島事故が日本社会に突きつけた核の危機を背景に、文学者が「生命(いのち)」に関わる問題として核とどう向き合ったかを検証する必要性を強調します。ヒロシマ・ナガサキの記憶が薄れ、原発再稼働や核廃棄物問題が軽視される「風化」の状況に警鐘を鳴らし、文学者の発言が持つ社会的影響力を分析する意義を説きます。特に、被害と加害の両義性(日本が原爆被害を受けつつ原発を推進してきた矛盾)や、希望を見出すための文学的アプローチを模索します。[](https://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1872-2.html)[](https://maeda-akira.blogspot.com/2014/07/blog-post_31.html) --- ### **第一部 吉本隆明の原発容認論** #### **第一章 「反・反核」思想の再登場** 吉本隆明(1924-2012)は、戦後日本の思想家として「知の巨人」と称され、独自の視点で原発問題を論じました。福島事故後、吉本は『「反原発」異論』(2012年)などで原発容認の立場を表明し、反原発運動を批判しました。この章では、吉本の「反・反核」思想の背景と問題点を以下のように分析します。 - **「原発」インタビューと『「反核」異論』**: 吉本は、1983年の『「反核」異論』で核兵器と原発を分離して考えるべきと主張し、原発の技術的進歩を肯定。福島事故後もこの立場を堅持し、「人類が積み上げてきた科学の成果を一度の事故で放棄すべきではない」と述べました(例:「原子力は危険がともないますが、その危険をできる限り防ぐ方法を考え進めないと、人類は本当にアウトですね」)。[](https://www.amazon.co.jp/%25E3%2580%258C%25E5%258F%258D%25E5%258E%259F%25E7%2599%25BA%25E3%2580%258D%25E7%2595%25B0%25E8%25AB%2596-%25E5%2590%2589%25E6%259C%25AC-%25E9%259A%2586%25E6%2598%258E/dp/4846013898)[](https://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1872-2.html) - **近代主義と科学神話**: 黒古は、吉本の思想が近代主義的な進歩史観に基づき、科学技術を過度に信頼する傾向にあると批判。吉本は、原発のリスクを技術的解決で克服可能と楽観視し、反原発運動を「感情的」とみなしました。 - **倫理の欠如**: 吉本の論は、原発事故の被害者や核廃棄物の長期的なリスクに対する倫理的視点を欠いており、黒古はこれを「思想の悲劇」と呼びます。吉本の主張は、原子力産業の論理に迎合する危険性を孕んでいると指摘します。[](https://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1872-2.html) #### **第二章 「反・反核」思想の歴史** 吉本の原発容認論の歴史的背景を以下のように掘り下げます。 - **核兵器と原発の分離**: 吉本は、核兵器の破壊性と原発の「平和利用」を区別する論法を採用。これは、戦後の日本の原発推進政策と一致し、反核運動の弱体化に寄与したと黒古は批判します。 - **「半科学的」知識とSF的妄想**: 吉本の議論は、科学的根拠が曖昧で、技術万能主義に基づく空想的な要素を含む。たとえば、核廃棄物の処理問題を軽視し、未来の技術進歩に委ねる姿勢が問題視されます。 - **時流評論家としての限界**: 吉本は戦後思想に大きな影響を与えたが、原発問題では時代遅れの「進歩史観」に囚われ、被害者の視点や倫理的責任を軽視したとされます。[](https://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1872-2.html) --- ### **第二部 大江健三郎の「反核」論** #### **第一章 前史――戦後文学者の「核」論** 大江健三郎(1935-2023)の反核思想を、戦後文学者の核問題への取り組みと比較しながら検証します。 - **戦後文学者の核論**: 荒正人、野間宏、武田泰淳ら戦後文学者は、ヒロシマ・ナガサキの原爆被害を基に反核運動を展開。大江もこの系譜に連なり、『ヒロシマ・ノート』(1963年)などで核兵器反対を明確に表明しました。 - **大江の反核思想の変遷**: 大江は、ベトナム戦争や沖縄問題を通じて、核兵器だけでなく原発にも批判的視点を向けました。1980年代以降、チェルノブイリ事故(1986年)を経て、原発の危険性に対する警鐘を強めました。[](https://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1872-2.html)[](http://www.inbooker.com/ja/book/df166) #### **第二章 「フクシマ」と大江健三郎** 福島事故後、大江は積極的に反原発運動に参加し、市民の抵抗を鼓舞しました。 - **「さようなら原発集会」スピーチ**: 2011年の集会で、大江は「フクシマを生き延びた日本人が、現在の54基に14基以上の原発を加えようとする勢力に、市民規模の抵抗をおこす日」を訴えました。事故の被害者への共感と、原発推進勢力への批判を明確に表明。[](https://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1872-2.html) - **『定義集』の意味**: 大江は、福島事故を「核の時代」の終焉と捉え、文学者としての責任を強調。『定義集』(2012年)では、原発事故を人類の倫理的課題として再定義し、市民の連帯を呼びかけました。 - **評価**: 黒古は、大江の反核論がヒロシマ・ナガサキ以来の日本の反核運動の延長線上にあり、被害者の視点と倫理的責任を重視する点で一貫していると評価します。ただし、大江の文学的アプローチが一部で抽象的すぎるとの批判も紹介されます。[](https://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1872-2.html)[](https://maeda-akira.blogspot.com/2014/07/blog-post_31.html) --- ### **第三部 村上春樹の「反核スピーチ」をめぐって** #### **第一章 村上春樹は『ニュークリア・エイジ』『極北』の翻訳から何を学んだのか?** 村上春樹(1949-)は、2011年6月のカタルーニャ国際賞受賞記念講演「非現実的な夢想家として」で、福島事故を踏まえた反核スピーチを行いました。この章では、村上の核問題への関与の背景を分析します。 - **「非現実的な夢想家として」**: 村上は、「我々日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきであった」と述べ、福島事故を「核の時代」の失敗として批判。ヒロシマ・ナガサキの被害者意識を背景に、原発の危険性を訴えました。[](https://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1872-2.html)[](https://maeda-akira.blogspot.com/2014/07/blog-post_31.html) - **『ニュークリア・エイジ』と『極北』**: 村上は、ジョン・アーヴィングの『ニュークリア・エイジ』(核時代の恐怖を描く)やラッセル・ホーバンの『極北』(核戦争後の世界を描く)を翻訳。これらの作品から、核の破壊性と人間の倫理的課題を学んだとされます。しかし、黒古は、村上のスピーチがこれらの作品の深い洞察を十分に反映していないと指摘。 - **限界**: 村上のスピーチは感動的だが、具体的な反核運動の歴史や実践への言及が乏しく、抽象的で「もっともらしい」言葉に終始していると批判されます。[](https://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1872-2.html)[](http://www.inbooker.com/ja/book/df166) #### **第二章 村上春樹発言と「反核」運動史** 村上の反核スピーチを、日本の反核運動の歴史的文脈で評価します。 - **原水禁運動**: 日本では、1950年代の原水爆禁止運動以来、反核運動が盛んでした。村上の「日本人は『ノー』を叫び続けるべきであった」という発言は、この歴史を無視し、あたかも反核の声がなかったかのように誤解を招くと黒古は批判。[](https://maeda-akira.blogspot.com/2014/07/blog-post_31.html) - **文学者の反核運動**: 大江や林京子ら文学者は、原爆文学を通じて反核を訴えてきた。村上のスピーチは、これらの先駆的努力を軽視し、個人的な感慨に偏っているとされます。 - **再び「非現実的な夢想家として」**: 村上の発言は、文学者としての「コミットメント」の表明として評価される一方、反核運動の具体性や継続性を欠くため、「無知」や「冒涜」とも受け取られかねないと指摘されます。[](https://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1872-2.html)[](https://maeda-akira.blogspot.com/2014/07/blog-post_31.html) #### **第三章 村上春樹擁護の陥穽――加藤典洋の「フクシマ」論** 村上のスピーチを擁護する加藤典洋の論考を批判的に検討します。 - **加藤の擁護**: 文芸評論家の加藤典洋は、村上のスピーチを「文学者の倫理的発言」として支持。しかし、黒古は、加藤の擁護が原発問題の核心(核廃棄物の処理や被害者の視点)を避け、村上の抽象的な発言を過剰に美化していると批判。 - **原発問題のパラドクス**: 原発問題は、技術的・倫理的・政治的複雑さを孕む。加藤の論は、このパラドクスを深く掘り下げず、村上の発言を「文学的」な枠に留めることで問題を矮小化している。 - **核廃棄物の核心**: 黒古は、核廃棄物の処理問題こそ反原発の「胆」であり、村上や加藤の論がこの点に十分に踏み込んでいないと指摘。文学者の発言には、具体的な問題提起が求められると強調します。[](https://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1872-2.html)[](http://www.inbooker.com/ja/book/df166) --- ### **あとがき** 黒古は、福島事故が日本の核問題(原爆・原発)の歴史を再考する契機であると強調。吉本の原発容認論は科学神話に囚われ、大江の反核論は倫理的だが抽象的、村上のスピーチは感動的だが歴史的文脈を欠くと総括します。文学者の発言が社会に与える影響を考慮し、ヒロシマ・ナガサキ以来の反核運動を継承しつつ、福島の教訓を風化させないための行動を求めます。[](https://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1872-2.html) --- ### **全体のテーマと意義** 本書は、福島事故を契機に、文学者の核問題への関与を批判的に検証する試みです。以下が主要なテーマです。 - **文学者の社会的責任**: 文学者は「生命(いのち)」に関わる問題として、核とどう向き合うべきか。黒古は、吉本の原発容認論が技術至上主義に陥り、村上の発言が歴史的文脈を欠く点を批判し、大江の反核論を比較的肯定的に評価します。 - **福島事故の「風化」**: 原発再稼働や核廃棄物問題の軽視を背景に、文学者の発言が「風化」防止にどう貢献できるかを問います。 - **被害と加害の両義性**: 日本が原爆被害国でありながら原発を推進してきた矛盾を、文学者の視点から浮き彫りにします。 --- ### **特徴と評価** - **詳細な文献分析**: 黒古は、吉本の『「反核」異論』、大江の『ヒロシマ・ノート』や『定義集』、村上のカタルーニャ講演などを詳細に分析し、豊富な引用を交えて論を展開。[](https://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1872-2.html)[](http://www.inbooker.com/ja/book/df166) - **歴史的文脈**: ヒロシマ・ナガサキ以来の原爆文学や反核運動の歴史を背景に、3人の発言を位置づける。 - **批判的視点**: 吉本と村上の論に厳しい批判を加えつつ、大江の倫理的姿勢を評価するバランスが特徴。 - **社会的意義**: 福島事故後の日本社会における原発問題の議論に、文学者の視点から新たな光を当てる。 --- ### **結論** 『文学者の「核・フクシマ論」』は、吉本隆明、大江健三郎、村上春樹の核問題への姿勢を、福島事故という歴史的転換点を軸に検証した評論です。吉本の原発容認論は技術信仰と倫理の欠如、村上の反核スピーチは歴史的無知、大江の反核論は倫理的だが抽象的と評価し、文学者の発言が持つ影響力と限界を浮き彫りにします。黒古は、核廃棄物の処理問題や被害者の視点を中心に、反原発運動の重要性を訴え、文学者が社会にどうコミットすべきかを問いかけます。本書は、福島事故後の日本の原発政策や反核運動を考える上で、文学的・倫理的視点から重要な示唆を与える一冊です。[](https://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1872-2.html)[](https://maeda-akira.blogspot.com/2014/07/blog-post_31.html)[](http://www.inbooker.com/ja/book/df166) --- **参考文献**: - 彩流社公式サイト[](https://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1872-2.html) - honto.jp[](https://honto.jp/netstore/pd-book_25531185.html) - 黒古一夫『林京子論―「ナガサキ」・上海・アメリカ』(日本図書センター、2007年) - 黒古一夫『日本の原爆文学』(ほるぷ出版、1983年)[](https://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1872-2.html) - X投稿(@uedon1103、2025年6月25-29日)
文学者の「核・フクシマ論」
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著者:黒古一夫
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