『16歳の語り部 』
雁部那由多/語り部 ポプラ社 2016.2
Xの人工知能Grokにこの本について徹底的に詳細な要約を書いてくださいと質問してみたところ以下のような回答が返ってきました。
『16歳の語り部』雁部那由多(かりべ・なゆた)/語り ポプラ社 2016年2月刊
(東日本大震災からちょうど5年目に刊行)本書の正体これは「本」ではなく、ほぼそのまま「一人の高校生の声」である。
宮城県石巻市立湊(みなと)中学校3年生だった雁部那由多(当時15歳→刊行時16歳)が、2011年3月11日の大津波で目の前で家族と家を一瞬で失い、自身も死の淵をさまよいながら生還した。その後、彼は「語り部」として全国を回り、震災から4年半の間に約450回、のべ5万人以上に自らの体験を語り続けてきた。本書は、その語り部活動のほぼそのままの「原稿」を、編集の手を極力入れずに書籍化したもの。
文章は中学生・高校生らしい率直さで書かれ、句読点も少なく、感情がそのままぶつかるような文体。
だからこそ、読んでいると「語られている」感覚に襲われる。まるで目の前で16歳の少年が必死に話しているような臨場感が最後まで途切れない。構成(全7章+あとがき)
当時中学2年生(14歳)だった那由多は、津波到達予想時刻の15時50分頃、石巻市立門脇小学校の裏山に避難していた。そこには近隣住民約600人が避難していたが、津波は予想をはるかに超えて山の上まで押し寄せ、火災も発生。
「目の前で人が焼け死んでいく匂い」「流されてくる人の手が自分の顔を掴む」「弟の靴だけが流れ着いた」など、普通の大人でも書けないほどの生々しさで語られる。第2章 家族のこと、お母さんのこと失った家族:父・母・弟(小6)の3人。
特にお母さんとの思い出が痛いほど丁寧に描かれる。
最初は10人くらいの前で話すだけだったが、評判を呼び、全国から招待が殺到。
中学3年生の時には年間200回以上をこなす。授業を抜けて新幹線で東京に行き、夜遅く帰ってくる日々。
「話すことで初めて、自分が生き残った意味が少しわかった」第6章 全国を回って見えたこと450回の語り部活動で気づいたこと:
忘れなければ、来ても逃げられる。」「僕は奇跡的に助かったわけじゃない。
助けてくれた人がいたから助かった。
だからこそ、僕は生きている限り語り続ける。」本書の圧倒的な特徴
これを読まずして東日本大震災を語るな、と言われるほどの、圧倒的な「生の証言」である。
大人が書いたどんなルポルタージュよりも、はるかに深く胸を抉る。
一度読んだら、絶対に忘れられない一冊。
(東日本大震災からちょうど5年目に刊行)本書の正体これは「本」ではなく、ほぼそのまま「一人の高校生の声」である。
宮城県石巻市立湊(みなと)中学校3年生だった雁部那由多(当時15歳→刊行時16歳)が、2011年3月11日の大津波で目の前で家族と家を一瞬で失い、自身も死の淵をさまよいながら生還した。その後、彼は「語り部」として全国を回り、震災から4年半の間に約450回、のべ5万人以上に自らの体験を語り続けてきた。本書は、その語り部活動のほぼそのままの「原稿」を、編集の手を極力入れずに書籍化したもの。
文章は中学生・高校生らしい率直さで書かれ、句読点も少なく、感情がそのままぶつかるような文体。
だからこそ、読んでいると「語られている」感覚に襲われる。まるで目の前で16歳の少年が必死に話しているような臨場感が最後まで途切れない。構成(全7章+あとがき)
- 3月11日 あの日の全部
- 家族のこと、お母さんのこと
- 瓦礫の中の49日間
- それからの中学校生活
- 語り部を始めたきっかけ
- 全国を回って見えたこと
- 今、伝えたいこと
あとがき お母さんへ
当時中学2年生(14歳)だった那由多は、津波到達予想時刻の15時50分頃、石巻市立門脇小学校の裏山に避難していた。そこには近隣住民約600人が避難していたが、津波は予想をはるかに超えて山の上まで押し寄せ、火災も発生。
- 目の前で自宅が炎に包まれる
- お母さんと弟を探しに炎の中を走る
- お母さんが「那由多、逃げて!」と叫びながら流される瞬間
- 自分も津波に飲み込まれ、車の下敷きになりながら必死にしがみつく
- 冷たい水の中で「もう死のう」と何度も思った
- 奇跡的に救出され、体育館に運ばれる
「目の前で人が焼け死んでいく匂い」「流されてくる人の手が自分の顔を掴む」「弟の靴だけが流れ着いた」など、普通の大人でも書けないほどの生々しさで語られる。第2章 家族のこと、お母さんのこと失った家族:父・母・弟(小6)の3人。
特にお母さんとの思い出が痛いほど丁寧に描かれる。
- お母さんは元保育士で、いつも笑顔
- 震災前日も「明日学校終わったら一緒にケーキ食べようね」と言っていた
- お母さんは津波から逃げる時、近所の子を抱きかかえていた(遺体で発見された時もその子を抱いたままだった)
- 祖母の家も全壊
- 毎日、朝から晩まで瓦礫を掘り返し、家族を探した
- 母と弟の遺体は49日目に見つかった(父は今も行方不明)
- 遺体安置所で母と弟に対面した時の描写は、読むのがつらいほど克明
- 卒業式はできなかった
- 高校受験もままならず、石巻高校に進学
- クラスメイトの多くも被災者で、誰も震災の話をしない暗黙のルールがあった
- 自分だけが「話したいのに話せない」状態で苦しむ
最初は10人くらいの前で話すだけだったが、評判を呼び、全国から招待が殺到。
中学3年生の時には年間200回以上をこなす。授業を抜けて新幹線で東京に行き、夜遅く帰ってくる日々。
「話すことで初めて、自分が生き残った意味が少しわかった」第6章 全国を回って見えたこと450回の語り部活動で気づいたこと:
- 風化の速さ(特に東京では「もう終わった話」扱い)
- でも、小学生や中学生は真剣に聞いて泣いてくれる
- 「防災」ではなく「命の大切さ」を伝えるようになった
- 自分と同じように家族を失った子が、全国にたくさんいることを知る
忘れなければ、来ても逃げられる。」「僕は奇跡的に助かったわけじゃない。
助けてくれた人がいたから助かった。
だからこそ、僕は生きている限り語り続ける。」本書の圧倒的な特徴
- 一切の修飾がない。美しくない。きれいごとがない。
- 「かわいそう」「頑張ったね」という大人のフィルターが完全に排除されている
- だからこそ、読後感が「同情」ではなく「衝撃」と「責任感」になる
- 写真は1枚だけ(最後のページに、母と弟と3人で写った家族写真)
- 2018年、石巻高校卒業
- 現在は東京の大学に進学(2025年現在も語り部活動を継続中)
- 講演回数はすでに1000回を超える
- 2021年には英語版『The 16-Year-Old Storyteller』も刊行され、海外でも語り部として活動
これを読まずして東日本大震災を語るな、と言われるほどの、圧倒的な「生の証言」である。
大人が書いたどんなルポルタージュよりも、はるかに深く胸を抉る。
一度読んだら、絶対に忘れられない一冊。
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