2019年2月9日土曜日

『あわいゆくころ 』 陸前高田、震災後を生きる


『あわいゆくころ  陸前高田、震災後を生きる     

瀬尾夏美/著      晶文社   2019.2

絵と言葉のアーティスト・瀬尾夏美は、被災後の陸前高田に移り住み、変わりゆく風景、人びとの感情や語り、自らの気づきを、ツイッターで記録した。7年分のツイート、各年を語り直したエッセイなどを収録する。

Xの人工知能Grokにこの本について徹底的に詳細な要約を書いてくださいと質問したところ以下のような回答が返ってきました。

『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』 詳細な要約書籍概要と著者背景『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』(瀬尾夏美 著、晶文社、2019年2月刊)は、東日本大震災(2011年3月11日)後の岩手県陸前高田市を舞台に、著者が被災地で出会った人々との対話、風景の変化、自身の内面的成長を記録したノンフィクション作品である。タイトル「あわいゆくころ」は、「あわい」(間隙、あいまいな境目)を「ゆく」(進む、過ぎる)と読み、震災の破壊から復興への過渡期──「遥か遠く感じる復興のあいだ」を象徴する。著者の瀬尾夏美は、震災当時、東京藝術大学美術学部4年生の22歳の美大生だった。画家・作家として活動し、映像作家の小森はるかとのユニットでも知られる。震災直後から被災地を訪れ、2012年から陸前高田に移住(当初1年の予定が3年に延び)、2015年頃に仙台市へ拠点を移すが、現在も月に1~2度訪れ、絵や文章で記録を続けている。本書は、2011年から2018年までのツイートを基にした「歩行録」、書き下ろしエッセイ、絵物語、写真・スケッチを収録した多層的な構成で、総ページ数は約200ページ。復興の「さみしさ」や「当事者性」をテーマに、被災者の日常的な言葉や仕草を通じて、喪失と再生の微妙なニュアンスを描き出す。読者からは「心に染み入る美しい言葉の宝庫」「復興の本質を静かに問いかける一冊」と評され、重版も決定した。 本書の構造本書は、時系列と形式の多様性を活かした構造で、著者の視点が徐々に被災者との「声の融解」へと進化する。主なセクションは以下の通り:
  1. 歩行録:2011~2018年のツイートを編集・再構成した核心部。震災直後の感傷的な独白から、被災者との対話が増えるにつれ、著者の声と他者の声が混ざり合う。短い断片的な記述が、日常の断片を積み重ねる。
  2. あと語り:歩行録を回顧するエッセイ。著者が移住後の葛藤や、表現の試行錯誤を振り返る。
  3. 絵物語:「みぎわの箱庭」「飛来の眼には」の2作。震災の悲劇を直接描かず、民話風の寓話形式で抽象化。2015年頃の仙台での「みやぎ民話の会」影響を受け、語り継ぎの有効性を探求。 全体として、ビルドゥングスロマン(成長小説)的要素が強く、著者の「絶対的に描かれるべきもの」への目覚めを追う。引用や二次資料は一切なく、すべて著者の足元からの一次記録である。
詳細な内容要約(時系列・テーマ別)本書の物語は、著者の個人的体験を軸に、陸前高田の風景と人々の「声」を織り交ぜる。以下に、主要な出来事、感情描写、テーマを時系列で詳細にまとめる。ネタバレを含むため、著者の内省や具体的なエピソードを深く掘り下げる。1. 震災直後(2011年3月):東京からの衝撃と初動
  • 出来事と描写:3月11日午後2時46分、東京の自宅で激しい揺れに襲われる著者は、外へ飛び出し、駅前のジムプールから水が噴き出す異様な光景を目撃。友人らと集まり、テレビやSNSで津波の惨状(流された町、原発事故)をリアルタイムで追う。想像を超える破壊に「私は何をするのか」「どんな態度をとるのか」と自問自答し、スケッチブックを開くが、表現の無力感に苛まれる。震災から3週間後、同級生の小森はるかとレンタカーで東北沿岸へ向かう。北茨城、石巻、宮古、盛岡を回り、風景は「ねじ曲がり、色を失った」灰色の荒野。ボランティアとして瓦礫の片付けや物資配給を手伝い、「ふつうの人々」の親切(おにぎりに豚汁を添えるおばあさん、倒れた家具を直す手つき)に触れ、人間の回復力に憧憬を抱く。
  • キーエピソード:陸前高田の高台在住のKさん(おばあさん)との出会い。Kさんの家は津波を免れたが、平野部で親戚や近隣住民が多数犠牲に。Kさんは早口で「何もない」と繰り返し、失われた美しい街並みを懐かしむ。著者はKさんの「塩水かぶっても花咲くよ」と笑う庭の水仙に、喪失の中の美しさを予感。
  • テーマの展開さみしさの萌芽。著者は東京に戻り、被災地の「報告会」を開くが、参加者の無関心に「伝わらない」諦めを感じる。被災者間の「語れなさ」(家族でも共有しにくい喪失感)が浮上し、さみしさを「相棒」と位置づけ、旅や表現で向き合う決意を固める。復興は「遥か遠く」の抽象物として描かれ、忘却の恐れが芽生える。
2. 繰り返しの訪問と移住(2011~2012年):対話の深化と「あわい」の発見
  • 出来事と描写:震災後約1年、1~2ヶ月に一度の訪問を繰り返す。Kさんとの関係が深まり、二度目の訪問では互いのさみしさを共有。夏の風景では、ひしゃげた車からひまわりの芽が生え、瓦礫を草が覆う「自然の回復力」が描かれる。9月の1ヶ月滞在で、福島県新地町の家族連れの光景(慎重に歩む親子、夕暮れの海辺)を目撃し、美しさと「忘却の誘惑」に戸惑う。東京と被災地の往復生活が「中途半端」だと自覚し、2012年春に陸前高田へ移住。住田町に拠点を構え、写真館店主との出会いが転機。「寒色の世界の中にも色がある。それをよく見ろ。それが芸術だ」と諭され、モチーフ探しの苦しみが解消。
  • キーエピソード:仮設住宅での暮らし。被災者たちは「変化に慣れる」努力をし、倒れた物を丁寧に立て直す仕草が「秩序の回復」を象徴。著者はKさんの外出を避ける様子や、物資の「申し訳なさ」を感じ、被災者の内面的孤立を観察。嵩上げ工事で更地化が進む中、花畑が埋められる光景に、記憶の喪失を痛感。
  • テーマの展開当事者性の境界。著者は「外部者」として被災者を観察するが、対話を通じて声の区別が曖昧に。さみしさは「巨大なもの」として共有可能になり、芸術が「ジャンルを越える営み」(記憶・生活・災害のつながり)だと気づく。歩行録の記述は感傷的・単調から、人々の言葉(「復興したらまたきてね」)が混入し、多声的な響きを生む。
3. 移住生活の深化(2013~2015年):声の融解と表現の試行
  • 出来事と描写:移住後、陸前高田の日常を深く浸透。広大な平野と海の「何もない」風景が、喪失の象徴に。被災者との対話が増え、涙を流す場面も。著者は「絶対的に描かれるべきもの」として、足元の世界(草の成長、水溜まりの反射、転倒した船)をスケッチ。2013年頃から、歩行録の声が「融解」──著者の内省と被災者の語りが境界を失う。仙台移住後も訪問を続け、全国で作品発表。
  • キーエピソード:写真館店主の言葉が、著者の画学生時代の「浅はかな自分史」からの脱却を促す。被災者の「詩人化」──悲惨を越えた美しい言葉(亡き人を弔う花のエピソード)が、心に染み入る。まちおこしの議論で、自然環境と人間の齟齬を自覚。
  • テーマの展開忘却と伝承。復興の速さ(工事の進行)が心身の追いつかなさを生み、「大切な何かを受け取ったら語らずにはおれない」人間の本能を描く。民話の影響で、抽象性を帯びた表現へ移行。
4. 絵物語と回顧(2015~2018年):抽象化と未来への橋渡し
  • 出来事と描写:絵物語「みぎわの箱庭」では、津波で水没した街の上に新地面ができるまでを、昔話風に創作。直接的な悲劇を避け、寓話的に「物語の種」を語り継ぐ。「飛来の眼には」は、震災経験を鳥の視点で描く。歩行録の後半は、復興の「あわい」をゆく声の変化を記録──柔らかく磨かれた多声性が、読者を巻き込む。
  • キーエピソード:全国巡回での対話。著者は作品を携え、被災伝承の新形態を探る。
  • テーマの展開芸術の役割。絵物語は、抽象性を獲得し「遠くへ届く」形に。さみしさを媒介に、互いの存在を認知する可能性を示唆。復興は個人レベルの小さな支え(植物の花、親切な手つき)から生まれ、著者の記録がその一部を担う。
全体の意義と読後感本書は、復興を「終わりなきあわい」として描き、読者に「さみしさ」を共有させることで、被災地への精神的な継続的な関わりを促す。著者の成長──東京の学生から、東北の「声」を紡ぐアーティストへ──が、読者の内省を誘う。読者感想では、「被災地の実感が得られ、忘却を防ぐ一冊」「美しい言葉に涙した」との声が多く、震災から10年以上経った今も、伝承の重要性を再認識させる。徹底的な記録を通じて、破壊の後に生まれる「柔らかい声」の可能性を、静かに、しかし力強く提示する傑作である。