『無限抱擁』 チェルノブイリ・いのちの大地
新版
本橋成一/写真 青林堂書店
チェルノブイリ原発事故によって汚染された地域を訪ねた写真家の目に映ったのは、広い大地の上で自然と共に生きている人々や生きものたちの、暮らしの確かさだった…。チェルノブイリ三部作の序曲をなす写真集。
Xの人工知能Grokにこの本について徹底的に詳細な要約を書いてくださいと質問したところ以下のような回答が返ってきました。
書籍概要『無限抱擁 チェルノブイリ・いのちの大地 新版』は、写真家・本橋成一による写真集で、1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故後の放射能汚染地域で暮らす人々の日常を捉えた作品です。新版は2016年4月に青林堂書店から刊行され(一部の情報源では西田書店と表記)、元版は1995年にリトルモアから発行されたものです。ページ数は134ページで、A4判サイズの大型本形式。ISBNは978-4888666039。チェルノブイリをテーマとした本橋の三部作(他に『ナージャの村』と『アレクセイと泉』)の第一作であり、事故の惨状を強調するのではなく、汚染された大地で力強く生きる人々の「いのちの讃歌」として位置づけられています。この作品は、1995年に日本写真協会賞年度賞と第7回写真の会賞を受賞し、国際的に高い評価を得ました。新版の発行は事故から30周年にあたり、2011年の福島第一原子力発電所事故後の文脈で再評価された背景があります。 著者・本橋成一の背景とチェルノブイリとの出会い本橋成一(1940年東京都生まれ)は、自由学園と東京綜合写真専門学校を卒業後、1960年代から写真家として活動を開始しました。初期の代表作『炭鉱(ヤマ)』(1968年、第5回太陽賞受賞)では、福岡県筑豊の炭鉱町を題材にし、土門拳の影響を受けつつ、地元住民の拒絶体験から「撮られる人たちの心の底におりて」いく撮影スタイルを確立しました。このアプローチは、上野英信の著書『追われゆく坑夫たち』から学んだもので、被写体と長期的に信頼関係を築き、略奪的に写真を撮らないことを信条としています。以降の作品として『上野駅の幕間』(新装改訂版で2013年日本写真協会賞作家賞)、『バオバブの記憶』、ドキュメンタリー映画『ナージャの村』(1998年土門拳賞、文化庁優秀映画作品賞)、『アレクセイと泉』(2002年ベルリン国際映画祭ベルリナー新聞賞など)があり、人間性と生活の深みを追求する作風が特徴です。チェルノブイリとの出会いは、事故から5年後の1991年4月。日本チェルノブイリ連帯基金の誘いで初訪問し、事故現場の「石棺」(コンクリートで封印された原子炉)、廃墟となった都市プリピャチ、放射能障害を負った子どもたちの姿に直面しました。本橋はこれを「写真など撮れるものではない」と感じ、核の恐怖を直接的に強調する写真を避けました。以降、3年半の間に7回渡航し、主にベラルーシのゴメリ州チェチェルスク地区(チェルノブイリから170キロ離れた汚染地域)を焦点に撮影。事故の悲惨さではなく、汚染された大地で自然と共に生きる人々の美しさと力強さに打たれ、それをカメラに収めました。このプロセスで、本橋は「起動が遅く、持続力の高い」スタイルを発揮し、最初は話を聞き、次に家族写真を撮って信頼を築くという方法で村人たちに溶け込みました。 書籍の内容とテーマ本書は、チェルノブイリ事故の影響を受けたベラルーシの田園地帯を中心に、約134ページにわたるモノクロ写真と簡潔なテキストで構成されています。主な撮影地はチェチェルスク村周辺で、事故により高濃度汚染された地域ですが、本橋は「汚染大地」と呼ばれるにはあまりにも美しく雄大な風景を描きます。写真の中心は、牧歌的な日常風景:結婚式の祝宴、ピクニックを楽しむ家族、ミレーの絵画を思わせる農作業、動物たちとの共生、広大な大地での労働と休息です。これらは、放射能の脅威下でも変わらぬ人間の暮らしを象徴し、「生きることの原風景」として提示されます。特に印象的なのは、居住禁止地区に勝手に戻ってきた老人たち「サマショール(わがままな人々)」のポートレート。彼らの笑顔には、故郷で人生をまっとうしたいという強い望み、誇りと哀しみが宿り、当局の黙認のもとで描かれています。本橋はこれを「核」ではなく「いのち」のテーマとして位置づけ、生命の瑞々しさと人間の絆を強調。汚染の悲惨さを背景に置きつつ、絶望に囚われず、人々の心の奥底を探る視点が貫かれています。例えば、子どもたちの無邪気な遊びや、村人たちの温かな交流は、災厄の向こう側にある人間性を浮き彫りにします。一方で、廃墟や障害児の写真は最小限に抑えられ、広河隆一のようなフォトジャーナリストの作品(荒涼とした風景、硬い表情の被災者)と対比されます。本橋の写真は柔らかく、生命の輝きを優先し、「ありのままの現実」を問題提起として投げかけます。テキスト部分は本橋の撮影記や村人たちの言葉を交え、写真の文脈を補完。全体として、汚染地域の「埋葬の村」(強制移住された村)の現実を知りつつ、美しさと雄大さに焦点を当て、読者に人間の暮らしの豊かさを問いかけます。新版では、事故30周年の文脈でこれらのテーマが再解釈され、福島事故との類似性(風評被害、共同体亀裂、残留住民の選択)が浮上しています。 写真のスタイルと撮影アプローチ本橋のスタイルは、被写体との深い関わりが鍵です。作家の森まゆみは書評で、「彼はなかなかシャッターを押さない。手に隠れる小さなカメラひとつだけである。最初は話を聞くだけだ。次に行くと家族写真を撮る。それを届けにいって喜ばれる……というふうに徐々に町に入っていく」と評し、「略奪的に写真を撮っていない」と称賛しています。この方法は筑豊での経験から来ており、チェルノブイリでも適用。結果、写真は被写体の自然な表情を引き出し、悲惨さを強調せず、隠された真実(人間の誇りと哀しみ)を捉えています。モノクロの柔らかなトーンが、汚染の暗さを中和し、生命の美しさを際立たせます。 受賞、影響、論争1995年の受賞後、本書はチェルノブイリ三部作の基盤となり、映画版も国際映画祭で賞を獲得。福島事故後、上映会が300回を超え、再版需要が高まりました。しかし、論争も生じました。フォトジャーナリスト広河隆一は1998年の雑誌『技術と人間』で、三部作の映画版を批判。高濃度汚染地域の住民生活を肯定するあまり、放射能の危険性を軽視し、次の犠牲者を生むと指摘。「被害にすでにあっている人の心を傷つけることを恐れるあまり、問題自体を放置することは、つぎにでる犠牲者にたいする責任が問われることになる」と述べました。本橋は反論し、「この事態は人類が引き起こした悲劇であり、責任を取りうる個人などいないのだと応えている。この悲劇を住民側のこととしてとらえることが自分の責任であり、『私は、ありのままの現実を描いて、問題提起をしているのです』」と主張。広河はさらに、残留住民視点だけが避難者の生き方を排除すると問いかけました。この論争は、福島の現状(残留放射能、処理水、風評被害、政府不信)を予見し、災害報道の多角性を示唆します。 新版の意義と全体の評価新版は、事故30周年を機に発行され、福島事故後の文脈で「いのちの豊かさ」を再考させるものとして位置づけられます。本書は、核災害の絶望を超えた人間のレジリエンスを描き、読者に「生きることの原風景」を提供。レビューでは、汚染地の美しさに驚く声が多く、ブログなどでは「汚染されたロシアの大地を歩き、強制移住させられた『埋葬の村』を知った。しかし、『汚染大地』と言われるには、あまりにも美しく雄大だった」との印象が共有されています。全体として、本橋の作品は政治的に中立を保ちつつ、生命の尊厳を讃える普遍的なメッセージを発信し、写真芸術の傑作として評価されています。
無限抱擁新版 |