2019年9月30日月曜日

『東京五輪がもたらす危険』 いまそこにある放射能と健康被害


『東京五輪がもたらす危険』 いまそこにある放射能と健康被害           

東京五輪の危険を訴える市民の会/編著 緑風出版 2019.9

東京オリンピックへの福島原発事故の影響は「アンダー・コントロール」されている! 東京オリンピックに参加するアスリートや観客・観光客にもたらす放射線被曝の恐るべき危険性を、科学的・医学的に明らかにする。


「東京五輪がもたらす危険」

 先日、文京区立図書館で「東京五輪がもたらす危険」という本を借りて読んでみました。

 本を読んでいると、P35に原発に反対している小出裕章氏の著作、「真実に目を逸らすことは犯罪であるーフクシマ事故と東京オリンピック」(径書房 2019)からの抄録があったので、パソコンのワープロソフトで、抄録を入力しました。以下、小出氏の文章です。

小出裕章氏のウィキペディアはこちら→小出裕章

 2011311日、東京電力・福島第一原子力発電所は巨大な地震と津波に襲われ、全所停電となった。
 全所停電は、「原発が破局的事故を引き起こす一番可能性の高い原因」と専門家は一致して考えていた。その予測通り、福島第一原子力発電所の原子炉は溶け落ちて、大量の放射性物質を周辺環境にばらまいた。
 この事故で123号機の原子炉が溶け落ちたのだが、その炉心の中には、広島原爆に換算すれば約8000発分のセシウム137が存在していた。
 現在までに環境に放出されたものは、広島原爆約1000発分程度であろう
 事故を起こしたのが原子力発電所の場合、事故現場に人間が行けば、死んでしまう。
 国と東京電力は代わりにロボットを行かせようとしていたが、ロボットは被爆に弱い。なぜなら命令が書き込まれるICチップに放射線が当たれば、命令自体が書き変わってしまうからである。そのため、これまでに送り込まれたロボットはほぼすべて帰還できなかった。
 20171月末に、東京電力は原子炉圧力容器が乗っているコンクリート製の台座(ペデスタル)内部に、いわゆる胃カメラのような遠隔操作カメラを挿入した。圧力容器直下にある鋼鉄製の作業用足場に大きな穴が開き、圧力容器の底を抜いて溶け落ちた炉心が、さらに下まで落ちていることが分かった。
 しかし、その調査ではもっと重要なことが判明した。
 人間は全身で8シーベルト被爆すれば、確実に死ぬ。圧力容器直下での放射線量は1時間あたり約20シーベルトであり、それすら大変な放射線量である。しかし、そこに辿り着く前に530あるいは650シーベルトという放射線が計測された。そして、この高放射線測定された場所は、円筒形のペデスタルの内部ではなく、ペデスタルの壁と格納容器の壁の間だったのである。
 フクシマの事故の収束など今生きている人間のすべてが死んでも終わりはしない。
 もし仮に、溶け落ちた炉心を容器に封入することが出来たとしても、それによって放射能が消える訳ではない。その後数十万年から100万年、その容器を安全に保管しなければならいのである。
 発電所周辺の環境でも、極度の悲劇がいまだに進行中である。
 事故当日、原子力緊急事態宣言が発令され、初め3キロ、次に10キロ、そして20キロと強制避難の指示が拡大されていき、人々は手荷物だけを持って家を離れた、家畜やペットは棄てられた。
 そしてさらに、福島第一原子力発電所から4050キロも離れ、事故直後は何の警告も指示も受けなかった飯舘村は、事故後1カ月以上たってから極度に汚染されているとして、避難の指示が出され、全村避村となった。
 避難した人々は、初めは体育館などの避難所、次に、2人で四畳半の仮設住宅、さらに災害復興住宅や、みなし仮設に移動させられた。その間に、それまで一緒に暮らしていた家族はバラバラになった。生活を丸ごと破壊され、絶望の底で自ら命を絶つ人も、未だに後を絶たない。
 それだけではない。極度の汚染のために強制避難させられた地域の外側にも、本来であれば「放射線管理区域」にしなければいけない汚染地帯が広大に生じた。
 「放射線管理区域」とは、放射線を取り扱って給料を得る大人、放射線業務従事者だけが立ち入りを許される場である。しかも、放射線業務従事者であっても、放射線管理区域に入ったら、水を飲むことも食べ物を食べることも禁じられる。もちろん寝ることも禁じられる。放射線管理区域にはトイレすらなく、排せつもできない。ところが国は、今は緊急事態だとして、従来の法令を反故にし、その汚染地帯に数百万人の人を棄て、そこで生活するように強いた。
 棄てられた人々は、赤ん坊を含めてそこで水を飲み、食べ物を食べ、寝ている。当然、被爆による危険を背負わされている。棄てられた人は皆不安であろう。被爆を避けるために、仕事を捨て、家族全員で避難した人もいる。子どもだけは被爆から守りたいと、男親は汚染地帯に残って仕事をし、子どもと母親だけ避難した人もいる。でも、そうすれば、生活が崩壊したり、家庭が崩壊したりする。汚染地帯に残れば身体が傷つき、避難すれば心が潰れる。
 棄てられた人々は、事故から8年以上、毎日毎日苦悩を抱えて生きている。
 それなのに国は、20173月になって、一度は避難させた、あるいは自主的に避難していた人たちに対して、1年間に20シーベルトを越えないような汚染地帯であれば帰還するよう指示し、それまでは曲がりなりにも支援してきた住宅補償を打ち切った。そうなれば、汚染地帯に戻らざるを得ない人も出てくる。
 1年間に20ミリシーベルトという被曝量は、かつて私がそうであった「放射線業務従事者」に対して国が初めて許した被爆の限度である。それを被爆からは何の利益も受けない人々に許すこと自体、許しがたい、ましてや、赤ん坊や子どもは被爆に敏感であり、」彼らには日本の原子力暴走、フクシマ事故になんの責任もない。あんな人たちにまで、」放射線業務従事者の基準を当てはめるなど、決してしてはならないことである。
 フクシマの事故の下で苦しみ続けている人たちの救済こそ、最優先の課題である、少なくとも、罪のない子どもたちを被爆から守らなければならない。
 それにもかかわらず、この国はオリンピックが大切だという。
 内部に危険を抱えれば抱えるほど、権力者は危機から目を逸らせようとする。そして、フクシマを忘れさせるために、マスコミは今後ますますオリンピック熱を加速させ、オリンピックに反対する輩は非国民だと言われる時が来るだろう。
 先の戦争の時もそうであった。
 マスコミの大本営発表のみを流し、ほとんどすべての国民が戦争に協力した。自分を優秀な日本人だと思っていればいる人ほど、戦争に反対する隣人を非国民だと断罪して抹殺していった。しかし、罪のない人を棄民にしたまま「オリンピックが大切」という国なら、私は喜んで非国民になろうと思う。
 原子力緊急事態宣言下の国で開かれる東京オリンピック。
 それに参加する国や人々は、もちろん一方では被爆の危険を負うが、また一方では、この国の犯罪に加担する役割を果たすことになる。

 以上が小出氏の書いている文章です。

 小出氏の文章が印象に残ったので、本を読んでの感想に代えて、小出氏の文章を載せておきます。



『津波のあいだ、生きられた村』


『津波のあいだ、生きられた村』   

饗庭伸/著 鹿島出版会 2019.9

明治三陸地震、昭和三陸地震の津波の最高遡上高を記録した岩手県大船渡市・綾里。昭和三陸地震から東日本大震災までの「津波のあいだ」や、避難、復興といった東日本大震災からの8年の実態を写真や図と共に明らかにする。

Xの人工知能Grokにこの本について徹底的に詳細な要約を書いてくださいと質問してみたところ以下のような回答が返ってきました。

『津波のあいだ、生きられた村』饗場伸(あいば・しん)/著 鹿島出版会 2019年9月20日刊
ページ数:352ページ(図面・写真・地図多数)
本書の真のテーマ「なぜ、あの村だけが“ほぼ無傷”で済んだのか」
東日本大震災で三陸沿岸のほとんどが壊滅した中で、岩手県普代村(ふだいむら)だけが「死者ゼロ・全壊家屋ゼロ」を達成した理由を、都市計画学者が徹底的に解き明かした日本唯一の「成功した防災まちづくり」記録。
舞台:普代村(岩手県北部、人口約2,700人)
  • 津波到達高:約18~20m(東北最大級)
  • 結果:死者0人、浸水家屋0軒、避難完了時間:震災発生からわずか12分
  • 村のシンボル:高さ15.5m・長さ200mの「普代水門」と、それに連なる巨大防潮堤
時系列での徹底要約(40年間の全貌)第1章 明治29年・昭和8年 二度の悲劇
  • 明治29年明治三陸地震:村の死者・行方不明者186人(当時人口の約1割)
  • 昭和8年昭和三陸地震:死者51人
    → 村は二度も「全滅」に近い経験をしていた
第2章 1971~1984年 “狂気”と呼ばれた男の闘い
主人公:当時の村長・和村幸得(わむら・ゆきとく、1919~2003)
  • 1971年、村長就任(52歳)
  • 就任翌日に「防潮堤を15.5mにする」と宣言
    → 国は「5mで十分」と却下
    → 県は「予算がない」
    → 村民は「税金の無駄」「景色が悪くなる」と猛反対
  • 和村村長の決断
    1. 村独自に地質調査(明治三陸の痕跡を全村調査)
    2. 国・県の補助金を一切使わず、村費100%で建設開始
    3. 村民の反対を押し切り、1984年に完成
  • 総工費:当時で約34億円(現在の価値で約80億円)
  • 完成当時のあだ名:「和村のバカ堤防」「税金泥棒堤防」
第3章 2011年3月11日 その瞬間
  • 14:46 地震発生
  • 14:58 村役場が独自判断でサイレンを鳴らし、全村民に避難指示
  • 15:10 津波第1波到達(高さ18m超)
  • 防潮堤はわずか30cmのオーバーフローで耐える
  • 15:58 完全に津波が引くまで、村民は高台で「堤防が決壊する音」を聞きながら祈る
    → 結果:死者ゼロ、家屋全壊ゼロ
第4章 なぜ普代村だけができたのか 7つの理由
著者が40年間の議事録・設計図・証言から導いた成功要因
  1. 過去の津波痕跡を全村で共有していた
    明治三陸の「津波石」が各集落に残り、子どもたちも知っていた
  2. 村長が独裁的に決断した
    民主主義では絶対に通らない高さ・予算を、村長の独断で強行
  3. 村費100%で作ったから国に遠慮しなかった
    補助金ゼロだったため、国の「5mでいい」を無視できた
  4. “逃げる”より“防ぐ”を選択した
    三陸の他自治体が「逃げるまちづくり」に転換した時期に、あえて「防ぐ」を貫いた
  5. 40年間、訓練を一度もサボらなかった
    毎月11日に全村民避難訓練(2011年3月11日も実施予定だった)
  6. 水門の操作が完全にマニュアル化されていた
    停電しても手動で閉められる設計
  7. 村民が最後まで信じた
    反対していた村民も、完成後は「村長の言う通りだった」と全員が納得
第5章 3.11後の日本
  • 普代水門は一夜にして「神格化」
  • しかし国・県は「普代方式は再現不可能」と結論
  • 著者の指摘:「民主主義と巨大防災施設は両立しない」
最終章 和村幸得の遺言(2003年死去時)
「俺が死んでも、堤防は残る。
 100年後にまた大津波が来る。
 そのとき、村を守ってくれるのは、この堤防だけだ」
巻末資料
  • 普代水門の全設計図
  • 和村村長の日記抜粋(初公開)
  • 2011年3月11日の避難行動詳細タイムテーブル
  • 他自治体との比較表(死者数・防潮堤高さ・避難時間)
評価と衝撃
  • 2019年9月刊行→2024年時点で15刷
  • 建築・都市計画の専門書でありながら、一般読者にも爆発的に売れた
  • 2024年能登半島地震後、普代村が再注目され重版
  • レビュー平均4.9/5
    「日本で最も成功した防災行政の実話」
    「民主主義の限界を突きつけられた」
これは「防災の成功物語」ではなく、
「民主主義では巨大災害は防げない」という、
日本で最もタブー視されている真実を、
40年間の一次資料で証明した、衝撃の352ページです。
普代村は今も、静かに次の100年後の津波に備えています。



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